から5年~私たちの思い(大野 佑介編)~

こんにちは、NPO法人コドモ・ワカモノまちingの大野佑介です。

 

3歳から鬼のような祖父と仏のような祖母と暮らしはじめ、案の定大のおばあちゃんっ子となりました。母子家庭で東京以外に田舎もない完全なるシティボーイでしたが、祖父母が運ぶ様々なご縁のおかげで、幅広い世代の人たちに囲まれ育ってきました。

24歳で祖母を亡くした時、社会のなかで生者と死者が共に生きている感覚、もう2度と会えない人と共に生きていく感覚を知りました。それが僕の今に続く原体験です。

「東北の全ての子どもたちの原体験を豊かにしたい」

団体代表の星野に初めて会った際に言われた言葉です。失われた縁は余りにも多く、眼前に立つ壁は余りに厚いかもしれません。

しかしそれでもなお、子どもたちが、あの日から歩んできた時間を豊かなものだったと感じられるように、これからも東北と共に歩んでいきたいです。

2011.3.11

 

3月11日、情報収取のためにテレビをつけると「早く逃げて下さい!!」という叫喚にも似たアナウンサーの声が聞こえてきました。

テレビが映す東北の様子を当時学生だった僕は思考が停止したように、その後数週間ただ黙々と見続けていました。
そして2011年の4月も終わる頃、初めて宮城県石巻市をボランティアとして訪ねました。
へし曲がった鉄骨、散在するガラス片、造形物のように残った家々の基礎部分、暮らしの風景を失ったまちの姿が至るところにあり、そして形容しがたい臭いをまとっていました。  

 誰もが必死に生きていた
しかし、余りに多くを失ったそのまちで、人々は懸命に生きていました。
子を失った人が妻を失い打ちひしがれる人を慰めていました。
過度のストレスにさらされ歪む子どもたちの心を若者たちが必死に癒そうとしていました。
笑顔で僕らボランティアを迎える女性はまだ旦那さんが見つかっていませんでした。
誰もが必死に生きていました。

東北に生き続ける人々の美しさ

7月。市内中心部からは遠く離れた牡鹿半島に位置するある避難所を訪ねました。
避難所といっても津波が到達した会議室程の広さの平屋で、そこを片づけ数家族が生活していました。
天井には津波が押しやった様々なガレキが挟まったり突き刺さったりし、むき出しのクギがこちらを幾つも向いたままでした。
そんな状況で暮らす人たちから何度も何度も「ありがとう、ありがとう」と言われ、仲間の一人は叫び泣き続けていました。自分の余りの無力さに、東北に生き続ける人々の美しさに。
1歩でも前進させたい。

 

あの時、あの場所にいたボランティアの多くが1分1秒を惜しく感じていました。
あと1歩、もう1歩でも前進させたい。
目の前で笑顔を向けてくれるこの人たちが堪えている余りに重い現実を、 ほんの少しでも支えたい。そう思っていました。

遊びのチカラ


「今日も明日もまた葬式だよ」
まちで出会った高校生がぽつりと小さく、小さく言葉を零しました。
2011年、子どもたちは毎週のようにクラスメイトや親族のお葬式に参加していました。
子どもたちのケア・支援は特に後回しにされていました。
物理的な復興もまったく追いついていませんでしたが、多くの子どもたちが家族のために我慢し、堪えていました。
小さな両の肩で、まだほんの小さな心で必死に堪えていました。
しわくちゃになった心がギスギスと感じる様々な想いを、うまく言葉にもできずただ堪えていました。

子どもたちへの支援、癒しが必要でした。

子どもたちが自らを癒し育む本来の力を取り戻す必要がありました。
遊びのチカラを通して。

僕は2011年の9月から月の半分を石巻で過ごし、残りの半分を東京で大学院の研究と震災の発信を行い過ごす形を止め、コドモ・ワカモノまちingのインターン生として震災復興支援のプロジェクトに関わり始めました。

子どものまち・いしのまき

  

2012年10月。
 石巻でそれまで個別に子ども支援を行っていたNPO等や地域住民ら20団体が協働し、子どもたちが様々な職業を体験しながらまちを運営する「子どものまち・いしのまき」を、津波被害のあった実際の商店街や周辺の通りで開催しました。

公募で集まった子ども店長は5ヶ月前から子ども会議を重ね、 自らの仕事を考え研修を受けます。  

そのプロセスを大人たちが支えます。
 困難の最中だからこそ、
 次代を担う子どもたちが夢を描き、
 希望を抱き、
 明るい未来を語ることが大切です。

子どもたちの一歩を支えるために、大人たちが団結しました。

子どもたちの夢が歩み始めた瞬間 

 

子どものまちは毎年開催され昨年で4回を数えました。

毎年1200名以上の親子が遊びに来てくれています。  その中で特に覚えているエピソードがあります。

2013年、獣医になることを夢見た少女は事前研修で訪れた保健所で、   殺処分を1週間後に控えた1匹の犬に出会います。

彼女は「この子を助けたい!」と引き取り、イベントの2日間で里親になってくれる人を探し 続け、ついに見つけだすことが出来ました。

犬の命を救ったのと同時に殺処分の現実を知った彼女は、 「石巻市を殺処分ゼロのまちにする!」と、大人たちの前で力強く語ってくれました。

 イベントを一つのきっかけとして、子どもたちの夢が歩み始めた瞬間でした。

 繋がり続ける人の輪

 

初開催の時にやってきた小・中学生が、今は高校生や大学生になり子どもたちを支える立場で毎年奔走してくれています。

各地の若者が、石巻の人々と共に子どもたちをサポートするため、 毎年駆けつけてくれています。

社会人となってからも身につけたスキルで、事務局をボランティアで支えてくれる東京の若者たちがいます。
石巻という地域に愛着を持ち、繋がり続ける人の輪が広がっています。

 

そして今、思うこと。 
 

学習環境の悪化と固定化、死別や離婚またそれに伴う経済状況の悪化などの家庭環境の変化、拭いきれないトラウマ、そして今まさに仮設住宅から復興住宅などへの転居・転校が始まり、今なお子どもたちを取り巻く環境は不安定であり、変化を続けています。

5年経ってなおこの困難に満ちた原体験が、それでも彼らの豊かな未来を切り拓いていく種になって欲しいと願っています。

そのために活動を続けていきます。

2011年のあの時、とにかく現場へ飛び込んだ僕が目にしたのは、崩れ果てたまちの光景と、人と人との美しい在りようでした。

行き交う人々が互いに感謝しあい、何かを提供する側される側、支援する側される側という関係性を超えて、

いま互いが生きて関わりあえていることに「ありがとう」と、繋がっていく様子でした。
そしてその出会いや繋がりが、新たな生きる理由・意志を紡いでいくのだと知りました。

昨年、神奈川での講演会の終わりにお子さんを連れご参加されたお母さんが、

「うちの2人の子どもは震災後に生まれました。この子たちにあの日のことを、この国の体験を自分の言葉で伝えていきたいと思います。」
と話してくれました。

失われた命を決して忘れず、

もう2度と会えない人々と共に生きていることを忘れず、
今を生きる子どもたちも、未来を生きる子どもたちも、
3.11と共に生きていける社会を築いていきたいです。

 

 ***この活動をこれからも継続できるよう、

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