から5年~私たちの思い(森 玲子編)~

こんにちは。
コドモ∞ムゲンプロジェクトスタッフの森玲子です。

私は1978年、静岡に生まれました。
読書が大好きだった子ども時代、物語に登場する、感性豊かで自由で鋭い子どもたちの姿に圧倒され(自分も子どもなのに)「子どもってすごい!」と感じたことが“子ども”という存在に興味と敬意を持った原点です。
なんとなく社会福祉学部に入学し、なんとなく児童養護施設でのボランティアをはじめた頃から「どんな人でも子どもでも、その人らしく希望をもって生きていける社会であるといいのに」という想いを抱くようになりました。
その後、相談業務などを経て、現在は市民活動センターにて相談員として従事しています。
当プロジェクトでは、仮設住宅における多様な人が一緒に過ごせる場づくりと、現地団体への支援を担当しています。
2011.3.11
2011年3月11日。あの日、私は外出先の川崎にいました。
翌日からは、都内の市民活動センターで、まったくの手さぐりの中、刻々と変わる情報の収集、交錯する情報の整理、市民向けの発信、ひっきりなしにかかってくる電話や訪問に対応する日々がはじまりました。そして、徐々に明らかになる被害の甚大さと深刻さを、受け止めきれずにいました。
震災後、初めて東北を訪れたのは2011年の夏のことです。石巻でした。数か月経っても、沿岸部や川沿いだけでなく、街には、生々しい津波のあとが残っていました。大きくひしゃげた橋、消えたままの信号、わずかな2階部分だけを残してかろうじて建っている家、どんよりと街全体を覆う臭い。駐車場の屋根に物置が乗っかり、割れた窓にカーテンらしきものが風に揺れている。あの時、なにを見て、なにを感じたのか、正直まだ十分には、言葉で伝えることができません。でも、日々メディアを通して街の風景は目にしていたはずなのに、ニュースで見るのと実際にその場所に立つこととは、違いました。
人との「出会い」の大きさ

もうひとつ、実際に行ってみてはじめて感じたのは、人との「出会い」の大きさです。
最初の訪問以降、コドモ∞ムゲンプロジェクトの一員として毎月石巻に通うことになるのですが、「私にできることなんてない」と無力感に苛まれ、「それなのに来てもいいのだろうか…」と迷った時期も長くありました。
東京から来ている私たちにとっても、とうてい笑顔なんて出る状況ではなかったのですが、一緒に遊んでいた子どもたちが声を出して笑ってくれたり、お母さんが子どもの手を引いて帰るときに振り返って「ありがとう」と声をかけてくださったり。
その瞬間に、なんというか、救われた想いがしたことを覚えています。
そういう石巻での出会いに支えられてこの約5年を歩んできたと実感しています。
※仮設住宅への訪問活動について 
本プロジェクトでは、3か所の仮設住宅を継続的に訪問(月1回)することになった。

その目的は「関わりの中から個人の抱えるニーズを発見すること」と「地域の専門機関や他団体と協力体制をとりながら対応すること」である。
さらにはその関係をもとに「コミュニティづくり」をすすめ、住まいが移ったあとも「つながり続ける関係をつくること」も大きな目標であった。
ここまでの取り組みにおいて、感覚的に「重要」と感じた点がいくつかあった。なかでも刻々と変わる「場」(談話室でのお茶会、お茶会に参加しない方がたや一人ひとりの暮らし全体を含めた仮設住宅)のアセスメントは、個別の関係づくりのプロセスにおいても重要であった。
まさしく住民お一人おひとりを取り巻く「環境」としての「お茶会」という視点でとらえることの必要性を感じる場面が何度もあった。私たちの訪問は「相談面接」ではなく、暮らしの一部としての「お茶会」という形である。
だからこそ、談話室でのおしゃべりや、仮設住宅の通路での立ち話から「場の状況」をとらえ、そこで暮らす人たちへの日々や生活への影響をキャッチしようとする視点が不可欠であった。
そうして「場」をとらえ、注意深く関係性を深めていくことで、「地元の人には言えない」ことを相談として受けたり、見えにくいニーズに接近できたケースもある。
また、この視点については「NPO法人にじいろクレヨン」からスタッフ向け研修内容のに含めて欲しいとの要望があった。
ここでは3つの仮設住宅それぞれの「場」の変化について簡単に紹介をしたい。

子どもと大人の居場所づくり


●仮設住宅A (2011年~2012年)
2011年の夏は、長い間、避難所生活を余儀なくされていた方がたの仮設住宅への転居がすすんでいた時期でもあります。石巻市には134か所の仮設住宅が建設され(2015年末時点は133か所)もともとのコミュニティやつながりと関係なく7,000世帯以上が入居しているような状況でした。そして当時、たくさんのいわゆる「支援団体」が仮設住宅を訪れていました。

その頃、子どもの遊びや居場所づくりに取り組む現地のNPOとともに、仮設住宅Aにおいて「お茶会」をはじめました。Aは小規模(23世帯)ながら赤ちゃんから高齢の方まで多様な世代が生活していました。仮設住宅においては、通常の生活音にさえも気を遣いながらの生活を強いられます。そのような生活は子どもたちにも大きな負担となっていましたが、大きな声でおしゃべりしたり、思いきり笑ったり、泣いたり、きょうだいけんかをしたり…は、なかなかできない状況でした。

加えて、公園や広場に仮設住宅が建ったこともあり、まちの中に子どもたちの居場所がほとんどありませんでした。最初のうちは近所の空き地で遊んでいたのですが、しばらくすると「津波の被害を受けなかった」ということで「空き地」に続々と「新築の家」が建ち並びました。みるみるうちに街並みも変わり、新たな住民が増えていきました。「仮設」と「自分の家」の住民、もともとの「地域の子」と「転居してきた子」、様々な想いが交錯していました。人間関係も複雑で“敏感なもの”になっていく様を肌で感じました。


「お茶会」は、現地のNPOがつくる遊び場と同時に同じ空間でひらいていましたので、住んでいる場所に関わらず、子どもと大人が自由に出入りできる場になりました。多くが直接的な言葉ではなかったですが、一緒に遊んでいる中で子どもたちの感情や想いに触れることがたくさんありました。大人の方とお茶を飲んでいても、何気ない言葉の選択や、会話の間(ま)から「見えにくいけど、今、石巻で起きていること」が伝わってくるような気がしました。

Aでの活動は半年ほど続き、徐々に住民の方主催のお茶会が日常的にひらかれるようになり、受け渡す形でいったん終了しました。

※住民の方主催でお茶会やイベントがしばらく続いていましたが、その後、いろいろなことがあり、自然消滅してしまいました。そのあと「さみしい…」という声を耳にしたことがありましたが、具体的には何もできないまま、住民の転居も増え、今日に至っています。

集まる場があることの大切さ


●2012年夏~2014年2月(仮設住宅B)
仮設住宅Aから徒歩5分ほどのところに、仮設住宅B(21世帯)がありました。Aにおじゃましていく中で、「Bには支援団体が来ていないらしい」「Aのお茶会などに誘っても、他の仮設には行きにくい…と言っている」ということを何度か耳にしました。そこで、Bのことを教えてくださったAの住民の方と、Aの住民でもある地元NPOスタッフと一緒にBにおじゃまして、班長さんにお話しを伺うことにしました。このあとBには、東京からボランティアとして石巻に来ていた方と一緒に、1年半ほど通うことになります。Bは、高齢の方の世帯が多く、1/3ほどが働いている世帯、私たちがおじゃましたころには子どもは2人のみの仮設でした。

はじめての訪問では2時間近く、班長さんのお話を聴かせていただきました。「うちみたいな小さな仮設には、誰も来ない。なにもない…」「(同じ仮設に)知り合いが数人いるけど、みんなで集まることはしていない」「談話室をどう使っていいのかわからない」「班長だけど、たまたま1-1(部屋番号)に住んでいるから…で決まった」「団体を呼びたくても、どうやったらいいのかわからない」。

私たちはもっと班長さんのお話を聴かせていただきたいと思い、そこから3ヵ月、班長さんと、その友人の住民の方のお二人に会いに行きました。今思えばこの出会いの時期に、「活動」や「プログラム」を持ち込まなかったこと、「お茶会」などを提案しなかったことについて、良かったのだと思っています。でも正直なところ当時は「なにかできることはないだろうか…」、とか「NPOなんだし、なにかしなければ…」という気持ちや焦りがありました。

お話をうかがう中で、実はBにもたくさんの団体が訪れていることが判明しました。定期的に来ている団体もありました。でも「どこの団体が、なんの目的で」来ているのか、たくさんの団体が来ているからこそなのでしょうか、いまいちよくわからない…という状況でした。

会うたびに、お話の内容も広がっていきました。震災以前のこと、町内会のこと、仕事のこと、家族のこと、これからのこと…。困りごとをお話しくださる人もありました。でもまだ、その頃の班長さんたちにとっては私たちも目の前を通り過ぎていく多くの「訪問」の一つにすぎず、何度か会っていてもそれぞれの時間がつながっていない「細切れ状態」だったのだと思います。毎回、以前話した内容と同じ話を、繰り返ししてくださっていたのを覚えています。

 

出会いから3ヵ月め。その日ひとしきりおしゃべりしたところで初めて「わたしたち」一人ひとりのことに関心を向けてくださったと感じる瞬間がありました。「たしか、生まれは静岡だよね?」「来月はいつ来るの?」「東京のニュースを見ると気になるようになったよ」。名前を呼んでくれたのも、この時が初めてでした。

その後、支援物資として届いた業務用のコーン缶(10Kg入り!)が「夫婦じゃ食べきれないし、缶の数も少ないからみんな遠慮して持っていかない…」という話題から、一緒に料理をして食べよう!ということになりました。それを機に、他の住民の方にも声をかけてくださり、その後は毎回たくさんの方が集まってくれるようになりました。特にプログラムもなく、私たちは「毎月、東京から遊びにくるお客さん」でした。そのうちに、みなさんが美味しい料理を持ち寄ってくださり、わいわい食べるという感じになっていき、「なんかしてあげるのが好きなのよ、こっち(東北)の人は」という言葉の通り、たくさんのあたたかいもてなしを受けました。夏には、私たちが帰ったあとに「振り返り会」をして、次回の「おもてなし」をみんなで相談してくれる…ということになっていました。

こうやって、お一人おひとりと、ゆっくり知り合っていくことで、それぞれ人柄や人生、人間関係が見えてきます。それによって、仮設住宅での生活の「空気」を感じることも多々ありました。たとえば、隣の家庭の声が筒抜けの仮設住宅では、夫婦げんかも気軽にはできません。「前の家だったらけんかしたら“ぷいっ”と家を出たり、他の部屋に行ったりできたけど今はできない。こんな生活だからこそ、ほんとは、けんかしないとダメなんだー」、「わたしらはこうやって談話室でおしゃべりしているからいいけど。それがない人たちはみんな我慢してるんかね…」ということとか。休日、他の住民が家族で出かけていく姿を見て「家族の仲がいいから、談話室に来ないのかな…」、「うーん」、「……」、「みんな表面はそう(仲がいいように見える)。でも声かけたら、集まるっちゃ。そういうこと…」。そんな会話もありました。そんな話を聞きながら、集まる場があること、なんでもないおしゃべりができることの大切さを感じていました。

 

Bの方から聞いた話では、その頃、長引く仮設住宅の暮らしの中にあって、あちこちの仮設住宅で住民同士のトラブルが起きているようでした。最初は小さなすれ違いも、徐々に大きな溝になっていったり、良好だった関係に変化が生じてしまいます。これらは、大きな事件として起きてくるというより、たとえば誰かが部屋の外を歩いたときに空気がさっと張り詰める…、その緊張感が息苦しく生活全体にジワリと浸透する…という感じで、外からはわかりにくく見えにくいものなのだけど、とてつもなく重苦しいものがのしかかっているのを感じました。
Bではその後、班長さんを中心に、住民の方が毎日談話室に集まるようになりました。朝、談話室の鍵を開けて、編み物をしたり、おしゃべりをしたり、テレビを観たりと、夕方まで思い思いに過ごします。震災から2年経つと、Bを訪ねてくる団体はほとんどありませんでした。若い世帯を中心に転居もちらほら出てきて、談話室に集まるみなさんが「私たち、居残り」と寂しそうに話す姿が目に焼き付いています。

※今でも班長さんとの手紙のやりとりは続いています。また、先日、復興公営住宅に引っ越されてからは、これから一緒に何かできないか、と考え中です。

共存できる場づくりの始まり

●2012年秋~継続中(2016年2月)
2012年の秋から、仮設住宅C(200世帯)におじゃまするようになりました。当時、遊びの活動をしていると、いろいろなところで「子どもの声がうるさい」「(遊びが定着すると)子どもたちが談話室に入り浸るようになって困る」といった声を耳にしました。子どもたちが安心して遊んだり、自分を出したりできるためには、周囲の大人の理解が不可欠、大人の方がたに信頼・協力してもらわなくては子どもの活動は難しいと感じていました。

Cでは当時、NPO法人にじいろクレヨン(石巻市)が、子どもたちに思いきり遊べる時間と機会を届ける活動を始めたところでした。初回、遊びの準備をしていたところに大人の住民の方が声をかけたそうです。「(子どもではない)私たちは、何をするんですか?」、「子どもたちだけですか?」。そこからCでの、子どもと大人がひとつの空間で尊重し合い、緩やかに交わり、共存できる場づくりが始まりました。

私たちは、ひとつの部屋の中に、大人の方が主役の場所と、子どもの遊びの空間を分けました。そして、子どもの遊び場の中で大人の空間を大切に守ることを続けました。

1年ほど経つと、大人と子どもの空間が真ん中で緩やかに重なり、ひとつの部屋の中に、「子ども中心の自由な遊び場→子どもと大人が交流する接点→大人中心だけど一緒に過ごしたい子どももOK」のようなグラデーションができてきました。


いま、大人のテーブルでは、住民の方に編み物を教えてもらったり、おしゃべりをしたり、編み物好きな子どもたちと一緒に楽しんだり…と、毎回にぎやかに、のんびり楽しんでいます。ここは、子どもが子ども扱いされず、大人が大人の役割を期待されない場で、お互い人として尊重しあい、対等にいる雰囲気は、とても心地よいです。そんな場を作っているのは、そこにいる子ども・大人、全ての人たちの存在だと思います。

そして「東京のお友だち」と言ってくださる皆さんと、会えないときも電話やメールでお話ししたり、相談に乗ってもらったり、イオンでご飯を食べていたら会いに来てくれたり…。皆さんと出会えたことにとても感謝をしています。

そして今、思うこと。


●これからのこと
震災から5年。石巻では、仮設住宅などから次の住まいへ、大移動の時期を迎えています。この間、支援団体、制度、市民からの寄付、企業の取り組み、助成金、ボランティア活動など、多くのものが「一区切り」となってきていると感じます。また、東京で生活をしていると、もしかしたら多くの方にとって、石巻や東北、被災された地域のこと、そこで暮らしている人たちのことを思い出す機会が減っているのかもしれないと感じることもあります。

一方で、約5年の年月を経て、やっと話せること、話してくれることも、たくさんあります。

いま東北から遠く離れた地で、「なにができるのだろうか」、「今更、行ってできることなんてあるんだろうか…」。そんな想いでいる方もいるかもしれません。でも、遠くに住んでいるからこそできること、つくれる関係があると、この5年で実感しています。

今、石巻は未来につながる大きな転換期をむかえています。

私たちの訪問は徐々に仮設住宅から復興公営住宅、地域の中へと移ります。場所が変わっても、これまで出会ったお一人おひとりとの関係がずっと続いていくように、一緒に過ごせる今の時間を大切に積み重ねていきたいと思っています。

 ***この活動をこれからも継続できるよう、

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